中世の旅とこころ 2
そうした交通機関の未発達のなかで、経済的・軍事的・政治的交通以外の遠隔地への旅は寺社参詣でした。
新城常三の『寺社と交通』という書物をみると、十世紀以降の熊野詣や伊勢参宮等がくわしく論ぜられています。
・・・それによると、レクリエーション化したのは江戸時代以降であり、中世までは苦行でした。
そうしたなかで、熊野詣のみ盛んであったのは何よりも貴族の間に莫大な荘園が集積され、経済的条件が確立したことがまずあります。
寺社の側にも、貴族たちの援助を必要とする経済的問題があって、参詣者の世話をする御師、先達という旅行業者的存在によって、熊野参詣が組織化されていったのです。
記録を引用するならば、熊野詣の回数は白河院12回、鳥羽院23回、後白河院33回、後鳥羽院29回とのことです。
国家的行事としてのものだけに、それに従う人もかなりの数になったと思われますが、久安三年(=四七)の鳥羽院の場合、沿道の国司・荘官に、菓子、酒、土器、薪、大豆、塩、炭等々の徴収が達せられています。
建久9年(1198)の後鳥羽上皇の場合、課役に応じなかった谷川荘の仕丁のひとりがぐるぐる巻きにされて、熱湯までかけられたという例が新城常三の著に紹介されており、旅を支える下積みの苦労のほどが思いやられるのです。
後鳥羽院といえば、『新古今和歌集』には「熊野にまゐり侍りしに旅の心を」と題して
みるままに山かぜあらくしぐるめり都もいまや夜さむなるらむ (989)
・・・と、この集では珍しい実景の旅の歌を残していますが、熊野のしぐれもさることながら、その旅の背後を思うと、また別の感銘を受けるのです。